老舗ライブハウス ルイードの歴史とは? コロナ対策を最強徹底するライブキャンペーンを開始するルイード×シミズオクト×エナツの祟り 鼎談 Vol.2

大型ホールやスタジアムで有観客ライブが再開され始めたが、ライブハウスは以前の活気を取り戻すには厳しい状況が続いている。そんな中、老舗ライブハウスグループのルイード、スポーツ・エンターテインメント事業社のシミズオクト、アーティストのエナツの祟りが、新型コロナウイルス(以下、コロナ)感染拡大防止対策を最強徹底するライブキャンペーンを開始した。
そこでこの機会に、老舗ライブハウスのルイードの華やかな歴史と当時のライブハウス事情について、ルイードグループ代表の落合壽年さんにお話しいただいた。

ルイードグループ代表の落合壽年さん

ルイードグループ代表の落合壽年さん

─ルイードの成り立ち

清水佳代子(株式会社シミズオクト 副社長):ルイードさんは日本では最も老舗の部類のライブハウスなのではないかと思います。その成り立ちや歴史を教えていただけますか?

落合壽年(ルイードグループ[株式会社アズミックス]代表取締役社長):はい。僕が入る前の事なのですが、RUIDO(ルイード)の最初の店舗を新宿にオープンしたのは1972年なのです。新宿3丁目で新宿駅東口の本当に駅前でした。菅原洋一さんやロス・インディオスなどのアーティストを手がけた小澤音楽事務所が母体で、自社のアーティストのために音響にとても力を入れて作ったライブハウスでした。

昔のライブハウスは飲食がメインだったので、椅子とテーブルが必ずあるのですね。厨房もあって。ドリンク付きのシステムでした。1972年に新宿にルイードをオープンした頃はフォークの時代でした。1980年代になってロックがすごく台頭してきて。佐野元春さんやザ・ロッカーズの陣内孝則さん、山下久美子さんや中村あゆみさんなどがレギュラーで出演していました。

僕は1984年にアルバイトでルイードに入ったんですよ。佐野元春さんの事が元々好きというのもあって。その佐野さんがずっとレギュラーで出ていたルイードを九州の田舎から見聞きしていたんですよ、すごいライブハウスなんだなって。で、東京にとりあえず出ようと。自分もバンドをやっていましたし、ギターをやっていましたから。

BANZAI編集部(以下、B):おいくつの時に東京にいらしたのですか?

落合:23歳の時に東京に来ました。仕事をしなきゃいけないと思って。『日刊アルバイトニュース』という、のちの『an』ですね、それを見たらルイードの募集が出ていたんですよ。あのルイードだ! と思い応募したんです。運良く、ルイードの営業部長が僕と同郷の宮崎の方だったんですよ。その当時はなかなか入れなかったそうなのですが、営業部長が宮崎出身の僕を推してくれて受かりました。それが1984年11月の事です。
その少し前の1984年3月には尾崎豊さんがデビューライブを新宿ルイードでやってるんです。僕が入った頃はレギュラーで出ていたのは中村あゆみさんとかバブルガム・ブラザーズ、ラッツ&スターでした。たまにチェッカーズやC-C-Bが出るとか。そんなバラエティな感じでした。

清水:当時のキャパはどれぐらいだったのですか?

落合:当時は椅子とテーブルを並べていましたが、椅子の数が250、後ろに立ち見が150でした。

B:結構広いですね。もしかして新宿BLAZEとかよりも広いですか?

落合:床面積は近いかも知れないですね。新宿ルイードが入っていたビルは今もあるんですよ。4Fに入っていたので飛び跳ねるのはNGでした。天井高もそんなになかったので、前方のお客様が立ってしまうとステージが見えなかったです。

清水:チェッカーズなどのライブを見ながらお客様は食事を食べていたのですか?

落合:チェッカーズのようなライブになってくると、メニューとしてはフライドチキンなどはあるんですが、基本的にはオーダーするかは自由なので、だいたいドリンクだけで観てもらっていましたね。
ルイードがプロダクションやレコード会社がよく使うポップでメジャーな感じ、インディーズとかロック系がロフトという感じでした。
面白いのが、あるパンクバンドのマネージャーの方が観にいらして、ロフト系でライブをやっているが客層を変えたいのでルイードに出たい、メジャーからデビューしているポップなビートバンドと対バンしたい、と来たのですが、そのパンクバンドは縦ノリなのでうちでは無理だとお断りした事があります。そんな時代でしたね。

BOØWY(ボウイ)などはロフトに出ていました。ロフトはその頃は新宿の小滝橋通り沿いにありましたね。
渡辺美里さんのデビューライブも新宿ルイードでありました。まだ18歳の新人で。今やかなりのベテランですが。新宿ルイードは1987年1月にラッツアンドスターのライブを最後に閉店しました。

その後、僕はライブハウスで制作の仕事をしていたので、そこに出入りしていたプロダクションの方に声を掛けられて、Broken Checkというバンドのマネージャーをやる事になるのです。
さらにその後はTHE MAD CAPSULE MARKETSやZI:KILLのプロモーションをやっていました。それをやっている最中の89年に原宿ルイードがいつの間にかオープンするのです。

─原宿ルイードの誕生

落合:これは先の小澤音楽事務所から枝分かれしたうちの一つにオフィスタイムマシンという事務所があり、TMネットワークを抱えていました。その事務所が、たまたま原宿にライブハウスにしたら良さげな物件があるからやりたい、ルイードという名前を使いたい、となったのです。
新宿ルイードがなくなって次のルイードの場所を探している者もいたのですが。また、新宿ルイードの元々のプロデューサーらはルイードの名前は使ってくれるな、規模が違いすぎる、と。原宿はちょっと小さかったですからね。原宿ルイードは行った事ありますか?

江夏亜祐(エナツの祟り リーダー・Dr.):もちろんです。僕が知っているのは原宿ルイードからで、後で詳しくお話ししますが、とても思い出深い場所なのです。

落合:そうなんですね。元々の新宿ルイードの流れの関係者はみんな大反対だったんです。当時の新宿ルイードがあまりにも偉大すぎたんで。それでも半ば強引に「ルイードという名前を付けないと上手くいかないから」と原宿ルイードが動き出したんです。結果的には良かったんですけどね。

原宿ルイードはよりポップでしたね。あの頃はストリート系のホコ天とかイカ天のバンドが出ていました。レギュラーは東京パフォーマンスドール、篠原涼子さんとか、平井堅さん、ゴスペラーズとかこの辺でした。T.M.Revolutionの西川貴教さんも出ていました。浅倉大介さんと貴水博之さんのユニットのaccessも1回ライブをやりましたね。

僕は当時、プロダクションの仕事をしていて、いくつかバンドのプロデュースやレコード会社を決めたりして動いてきたのですが、なかなか売れず……。最後はdrug store cowboyというバンドをマネージメントしました。
そんな時に昔の流れで原宿ルイードの店長をやってくれという話を1998年に貰ったのです。いいですよ、と引き受けました。そこからちょっといろいろと原宿ルイードに手を加えました。

─多店舗展開へ

落合:2000年ぐらいからライブハウスが若干増え始めた時代でした。原宿ルイード1店舗だけだと勝負できない、多店舗展開していかないと、というところから、2003年に渋谷ルイード K2を作り、昨年は12店舗ぐらいになって、うち2店舗を他社に渡しました。
今年はコロナ禍の影響で、池袋ルイード K3は11年間営業しましたが2020年8月31日で終了。新宿ルイード K4は15年間営業しましたが9月30日で終了。現在、ルイードグループの店舗は8店舗です。そして今に至るのです。

清水:そんな躍進の最中にアルバイトから社長になられたのですね?

落合:ライブハウス運営に長けて多店舗展開が上手くいった実績が評価されてか2009年から僕が社長になりました。

清水:多店舗を統括する社長は大変ですよね?

落合:大変ですね。今年のこんなコロナ禍がなければ、さらにどんどん展開を進めていたかも知れませんね。まあ気付かされた部分も多いですけどね。今はコロナの影響で赤字が出てつらいですが割り切ったところもあります。

─音楽ライブ業界からプロダクション業務まで

落合:社長になるまでの間は、自身の会社だったインセクトノイズがルイードから業務を請けてやっていたのです。元々はこの会社はTHE MAD CAPSULE MARKETSのインディーズレーベルとして戦略的に出来た会社で。先程お話ししたように僕がいくつかのバンドのプロダクション業務をやってきた会社なのです。
THE MAD CAPSULE MARKETSの前身バンドBERRIEが横浜セブンスアベニューに出ていた際に、いいバンドがいる、と。それを観に行って。その後にレコード会社の方を呼んだ際に、ビクターでBUCK-TICKのレーベルプロデューサーの方がいたく気に入り、やろうと。インディーズで一年間やりましょう、という際に作ったのがインセクトノイズというレーベルです。その会社なんですけど。

清水:日本の音楽業界のポップスからロックまで、黎明期からずっとお仲間の方々と一緒に過ごしてらしたという事ですね。

落合:そうですね。でも僕はあんまり偏ってないんですよ。どっちかと言うと広くエンターテインメントとして捉えているので。がちがちのロフト系みたいなのとか下北系というノリではないですね。どれも好きなんですけど、基本はエンターテインメントという考え方があって。それはアイドルでもいいし、ビジュアル系でもいいです。楽しませられれば。
基本的にはエンターテインメントで来ましたね。この5年10年ぐらいは。

─エナツの祟りとの出会い

清水:エナツの祟りとはどのように知り合ったのですか?

落合:ジュリアナの祟りの頃にL-1グランプリで見たのが最初です。面白いね! と思って。あの時のイメージで、いいなあと思いました。
L-1グランプリは、RUIDOグループが2014年から始めたバンドコンテストで、予選、準決勝と勝ちあがっていくと、お盆前後に新宿ReNYで決勝大会となりライブでき、お客様もかなり沢山いらっしゃるんです。

江夏:L-1グランプリは出来た時から僕は気にはしていて。僕らのバンドのコンセプトは「バブリー!」だし、賞金を獲りに行くのもお客様からしたら嫌な感じではないだろうし、ばんばん出ようと。
でも最初はまだ僕らは勝てるだけのファンの動員力もなかったので、僕らの実力と人気が追いついてきたタイミングの2017年のL-1グランプリに出場させていただき、決勝で特別賞をいただいたのですよね。

ルイードグループ代表の落合壽年さんを囲むエナツの祟り

ルイードグループ代表の落合壽年さんを囲むエナツの祟り

─バンドコンテストの新しい形とは?

清水: L-1グランプリを開催したきっかけは?

落合新宿ReNY(レニー)が出来た時に、決勝として新宿レニーに出られる形のコンテストをやりたいという提案がスタッフからあったのです。最初は出場バンドにノルマがある案だったのですが、僕がそれはどうなの? やるならノルマなしだよ、と。その代わり賞金を出来るだけ付けようと。

昔だったらメジャーデビューが目標だったりしたじゃないですか。今の人の場合は目標は何かという話をした時に、メジャーに行っても売れる事が大事だし、もっと言えば食べる事、稼ぐ事が大事なんじゃないの、と。
と言う事は賞金が目的でも良いじゃないかと。そのお金を有効に使えばいいし、自分たちがライブをやった事で賞金が稼げたらうれしいのではないかと。

僕はスポーツもすごく好きなのですが、テニスの大会でもあちこち回るのは賞金を稼ぐためですよね。あんな事がミュージシャンにもあっても良いのかなと。せっかく良いライブをやっているのに、メジャーの人に媚びてやるのではなくて、賞金で稼ぐ。そういうコンテストになればいいなと思って開催したのがL-1グランプリです。

清水:優劣はどうやってつけるのですか?

落合:観客による投票です。ウケるかウケないか。もちろんやり方については賛否いろいろありますよ。それをひっくるめてライブで稼ぐというか。

清水:私は『スター誕生!』も担当していたのですが、そのような審査員はいないのですね?

落合:そうですね、審査員は付けないです。審査員を付けると専門的に評価されるかも知れませんが、それよりもどれだけ多くの人に受けるかです。やっぱりお金を稼ぐのは多くの人にウケて楽しませたかどうか、そういう事かなと。
お客様のウケがいまいちなのに審査員が良いと言うのは、今は違うのではないかと。そういう形のコンテストも否定はしないですけど。
今の時代は売れていく人は勝手に売れていったりもするじゃないですか、ネットの中で。あれは多分多くの人にウケているからなのですよね。
それをコンテストでやってみようかなと思ったのが2014年でした。

─今、アーティストが売れるためには?

落合:プロダクションをやっていた際はライブハウスで良いバンドを見つけてよく声をかけていたのです。「一緒にやろうよ。レコード会社を決めるから」と。プレゼンライブをやってレコード会社を呼んで。いくつかのバンドのレコード会社が決まった事があるのです。契約金が数千万円だとかもあった時代でした。

清水:昔はありましたね。

B:そんな野球のドラフトみたいな事があったのですね。

落合:昔はそういう事があったんですよね。ある意味、契約金が入ると2年間ほどが保障される訳ですね。それがいつの間にかゴールになっていたのです。
でも本当は売れる事がゴールなのかなと思って。なので、L-1グランプリでは審査員がいるコンテストとは違う考え方をしたというか。コンテストにレコード会社の人を呼んでグランプリはレコード会社からデビューできます、という形もありますけどね。

今年はちょっと趣向を変えようと思っていたんです。優勝は賞金を目玉として開催して来ましたが、煮詰まった部分もあって。賞金だけだといろいろな見方をする人もいるし、賞金狙いで戦略的に勝ちに来るバンドも出たりしていたので。
もうちょっと具体的な部分やバンドのプロモーションでプラスになる事も欲しいので、例えば優勝者は賞金100万円に加え、LAに行けてレコーディングが出来たりPVが撮れる、などの案を考えていたんです。さらに世界配信も絡められればお互いにとって良いのかなと。でも、それがコロナ禍で到底出来なくなってしまって。

今はどうやって売れるのか判らなくなっていますよね。以前の方がわかりやすかったですよね。レコード会社を決めてテレビに出てタイアップを決めてとか。でもタイアップを付けても、そうはなかなか売れて来ないし。そこを打開したいなというのはよく思っていますね。

─思い出深いルイードの店舗たち

江夏:僕は高校時代からやっていたバンドで2005年ぐらいに原宿ルイードに何度か出させていただいて。でもそのバンドも解散して。Mr.Childrenのような歌物バンドをやっていたので、その後にもう一回バンドをやろうと思った際に、サザンオールスターズのような楽しいバンドがやりたいなと思って作ったのが、今のエナツの祟りの原型となるバンドでした。
今年は原宿ルイードと同じ場所にRENON(レノン) がオープンするはずだったじゃないですか。そのコトが僕にとってめっちゃエモかったので、実は今年はレノンでライブをやるつもりでした。それがコロナ禍になってしまって……。

落合:そうなんですよね。原宿レノンはルイード系列で11店舗目のライブハウスです。コロナの影響で2020年9月よりプレオープンという状態ですね。
原宿ルイードと同じ場所だからレノンをやろうと思ったのは確かです。経費はかなりかかりますが。

江夏:僕らのバンドは新宿ルイード K4にも出させていただきました。ダンクとネルが入った後に、前からいたメンバーの卒業イベントで渋谷REX(レックス)に出させてもらい、その際にスタッフの方に気に入っていただけて、以降は度々出させてもらえるようになりました。
池袋ルイード K3もよくお借りしました。また、渋谷ルイード K2も何度か出ています。僕は原宿ルイード以降は大阪ルイードを除いて全ての店舗に出演した事があります。

落合:そうなんですね。原宿ルイードは2007年に閉店したのですが、それが半年前に決まり、新宿や渋谷で物件を探そうと不動産屋に相談したら江古田を勧められて。見てみたらライブハウス向きの作りになっていたんですよ。これはこれでいいですね、でも新宿や渋谷で物件はないのですか? と聞いたら出て来たのが新宿ルイード K4の場所なのです。リストアップした中で最も期待してなかったのですが、実際に見てみたら天井がとても高くて。

それで結局、江古田も新宿も両方でライブハウスをやりました。その後に江古田を閉店した際に池袋の物件を探しました。それが池袋ルイード K3です。江古田の時はアコースティックとか歌モノ系の出演者が多かったですが、池袋はビジュアル系のバンドが多くなりました。

─こだわりの命名の由来は?

落合:そういえばビジュアル系の小屋が渋谷にないよね、と物件を探したところ、渋谷レックスとなる物件が出てきて。渋谷レックスはビジュアル系のイメージで名前を付けました。

江夏:なんでルイード系なのに名前が違うのですか?

落合:渋谷にはルイードK2がありますし、ルイードはオールジャンルでやってきたので、ビジュアル系に特化した小屋なら名前を変えようとなりました。そこでルイードの別の形、RUIDO Extraを略してRexにしたのです。
青山RizM(リズム)はRUIDO Ismから、原宿レノンはRUIDO Entertainment On Stageの略です。
新宿レニーはNYにいる時に名前を付けたので、エンターテインメントの街のNYにまた戻って来たいという思いを込めて付けました。
赤羽ReNY alpha(レニー アルファ)は赤羽のaとプラスアルファの意味で。そういうこだわりがあるのです。

江夏:面白いですね。実は僕は原宿にレノンを作ると聞いた時にちょっと嫌だったのです。僕は昔の新宿ルイードを知らなかったので、原宿ルイードが移転して新宿ルイード K4になったイメージだったので、また原宿でやるのだからルイードでいいじゃん、なんでレノンにするのだろう? と思っていたのです。いろいろな意味やこだわりがあるのですね。
当時は3カメあるライブハウスはなかなかなかったので、それがあった原宿ルイードにはすごく思い入れがあるのです。

落合:なるほどね。原宿ルイードにしようという案も無くはなかったのですが、何かこだわったのでしょうね。

─今後の展開は?

落合:あと2年で新宿ルイードのオープンから50周年になりますから、また何か新たな展開をやりたいなと思っています。

清水:ルイードグループはその歴史の素晴らしさはもちろん、エナツの祟りがよく使っている渋谷レックスも、先日開催した日本のスタジアムライブの変遷を語るイベントで使わせていただいた赤羽レニー アルファも、また先日視察させていただいた青山リズムも、大変綺麗で清潔ですし、コロナ対策や衛生管理にも気を配っていますよね。
そんなルイードさんと共にコロナ対策を最強徹底するライブキャンペーンを行うので、さらに目に見える形でコロナ対策を行う事で、安心と楽しさをご提供していきたいですね。

ルイード×シミズオクト×エナツの祟り コロナ対策を最強徹底するライブキャンペーン
2020年11月17日(火) 青山RizM 開催レポートはこちら
2020年12月17日(木)青山RizM 開催レポートはこちら
2021年1月8日(金)赤羽ReNY alpha ※延期。日程は後日発表
2021年2月8日(月)赤羽ReNY alpha 詳しくはこちら
2021年3月12日(金)赤羽ReNY alpha
2021年4月2日(金)渋谷REX
2021年5月1日(土)渋谷REX


ルイードグループ(株式会社アズミックス):1972年、「RUIDO」を新宿にオープン。コロナ禍の影響を受け、11年間営業した「池袋RUIDO K3」は2020年8月末日で営業終了。15年間営業した「新宿RUIDO K4」は9月末日で営業終了。「渋谷RUIDO K2」「大阪RUIDO」は営業継続予定だが、感染状況によっては予断を許さない状況も考えられる。「RUIDO」の灯を消さないためにもルイードグループ現在8店舗で奮闘中。2022年には「RUIDO」生誕50周年を迎える。https://ruido.org/

株式会社シミズオクト:昭和7年(1932年)創業。舞台美術や会場設営、警備、運営、施設管理業務など、イベントに携わる全ての道のプロフェッショナルが揃ったスペシャリスト集団。コンサート、展示会、博覧会、野球・サッカーの公式試合やその他スポーツの国際大会等、様々なイベントの快適性や安全性をサポートし、企画から設営・運営までトータル事業を行う。https://www.shimizu-group.co.jp/

エナツの祟り:バブリー系エンタメバンド。ビートたけし命名“ジュリアナの祟り”から、「令和のバブルを呼び起こす!!」ため令和改元と同時にバンド名を“エナツの祟り”に改名し、『バブリー革命 ~ばんばんバブル~ 令和バブル盤』で2020年1月9日に再メジャーデビュー。https://tatari.tokyo/


※本鼎談は2020年11月7日に行われたものです。