仕事の流儀 大谷秀政 株式会社エル・ディー・アンド・ケイ 代表取締役社長

ホームレスから這い上がり、日本最大級のインディーズレーベルと多数のライブハウスやカフェを経営し“渋谷の黒豹”と呼ばれる大谷秀政さん。コロナ禍でも攻めの姿勢の理由は? その極意を伺いました。

大谷秀政 株式会社エル・ディー・アンド・ケイ 代表取締役社長

大谷秀政 株式会社エル・ディー・アンド・ケイ 代表取締役社長

小さい頃からサラリーマンにはなりたくなかった

BANZAI編集長(以下、B):愛知県のご出身ですよね。どんな子ども時代でしたか?

大谷秀政(以下、大谷):普通の公立の小・中学校で、父は建設業で地方によくある家庭でした。僕は3人兄弟の真ん中なので自由でしたけど、兄貴がいたので。

中学生ぐらいの頃に、なんで年上の奴が威張ってるんだろうなと思って。年功序列は嫌なのでサラリーマンにならないと決めて、それが段々確信に変わってきましたね。

B:それは何故でしょう?

大谷:あんまり長生きすると思っていなかったんです。体が弱いのではないのですが、自分の年をとった姿を想像すると38、39歳ぐらいで止まってしまう。

どうしてもイメージできないという事は多分その頃に死ぬんだろうなと思ったのです。それなら年功序列のサラリーマンだと損だし。

B:具体的になりたい職業はなかったのですか?

大谷:全然なりたいものがなかった。小学校の時はものすごく頭がよかったんですよ。はちゃめちゃでしたけどね。

田舎は特にそうですが、男の中学の頃の上下関係はその後も変わらないんですよ。僕は小学校の入学式で強そうな
同級生全員に噛み付いたんです。

もう絶対今日で決めないと一生負けるぞって、きっと野生の本能で解っていたんですよね。それで「こいつヤベえ」となって以来、今まで来ているので。

大学も快適な環境を優先

B:大学入学で上京されたのですよね? 大学は何系でしたか?

大谷:日大芸術学部も受かったのですが、3人兄弟で田舎の家だし、高い学費は払わないと親に言われて。日大の社会学科に入ったんです。

中央大学にも受かったのですが、山の中のキャンパスは東京じゃないと思って。水道橋辺りの大学も受かったのですが、ビル街すぎてキャンパスじゃないな、サラリーマンじゃないんだから、こんな所に通えるかよ、と思って。

対して日大の文理学部は桜上水にあって。僕はレトロな物が好きで集めていて、初めて観た映画も『エレキの若大将』で桜上水が舞台で、環境がいいんですよね。それで日大を選びました。

B:環境を優先して選んだのですね?

大谷:そう。好きな感じの場所を優先した。僕は今、渋谷中でこんなに沢山の店を作っているけど、もし京都や神田あたりだったらコーヒーの店は既にあるので作らないです。

渋谷においしいコーヒーの店がないので作っているのもあるし、自分の快適な環境作りのために生きているので。

宇田川カフェの店内

渋谷の「宇田川カフェ」

B:今の生き方と通底していますね。

大谷:38、39歳で死ぬと思っていると、大学4年間は人生の1/10を占めてしまうし、常にその時が快適じゃなきゃ嫌なんですよ。

B:それが叶うのがすごいですよね。

大谷:叶えられるようにしていくんです。自分で整えていくんです。それをずっとやってるだけなんですよ。

B:上京するにあたって、何かになりたい、何かをやりたいっていう夢はまだなかったですか?

大谷:大学に入っても、まだ一切なかった。兄貴もいるので実家の建設業を自分が継げるとは限らないので、とりあえず東京に出ないと仕事がやばいと思って。でも結局は誰も継がなかったけどね。

イベントに失敗し24歳でホームレスに

B: 1991年に大学卒業後、就職を経て起業しイベントを手掛けるようになったのですね。大谷さんの著作『CREATION OR DEATH 創造か死か from SHIBUYA』にも書かれていますが、24歳の時にイベントに失敗して600万円の借金を抱えてしまうも、3日眠って復活したそうですね?

大谷:だって、そうするしかなかったからね。逆境があって借金を抱えると、普通に働いても借金を返せないじゃないですか。

という事は、会社を作ったり社長をやるしかなくなっちゃうんですよ。タフにならざるを得ないんですよ。そこで潰れちゃうと終わりじゃないですか。

僕も逃げないで3日寝ていたと言っても、頭の中ではどうしようかなと考え続けていたんですよ。お金は誰もくれませんからね。だから企画を考えるしか仕方ないんですよね。

B:しかも当時住んでいた部屋も解約してホームレスに?

大谷:そうです。お金がなかったからです。

ホームレス時代の不安は?

B:ホームレスだった2年間は不安だったのでは?

大谷:お年寄りのホームレスで体の具合が悪い訳でもなく、僕はまだ若くて身体も元気だったし、人生の途中経過だと思っていたので別にそんなに苦じゃなかったです。だって健康なら働けるじゃないですか。

ホームレスとは言っても会社はずっとあって、電話秘書サービスを使いながら働いていたのでそんなに悲壮感もなかったですね。それなりに楽しくやっていましたよ。

それでも冬は本当に寒くて無理だったので、雀荘や友達や彼女の家を転々としてましたけどね。

自制心がないと社長はできない

B:実家に帰る選択肢はなかったのですか?

大谷:親とは仲いいけど、連絡も相談も一切しなかった。実家に帰っても田舎には仕事がないと思ったし、帰るぐらいだったらホームレスになろうと思ったから。

そのぐらいの考えでいないと、つらかったらすぐやめちゃいますし、甘えてすぐ実家に帰っちゃいますよ。どこかで自分に決まりを作っておかないと頑張れないでしょ。

自制ができないと会社や社長なんてできないよね。会社員にならない道を選んだのだから、自分でルールを作るしかない。

仕事を創り出すか死か

B:やがて仕事が順調になってきて、ホームレスから復活されるんですよね。

大谷:そのままでは人生が終わるしかなかったですし、自分で仕事を創らないと死ぬ訳ですから。自著のタイトル『創造か死か』をまさに今もずっとやっているんですよ。

古い慣習は要らない。島国根性が足を引っ張る

B:その後、レコード会社にいた事がないのにレコード会社を始めたそうですね?

大谷:そうなんです。業界での古い慣習みたいなのは要らないと思ってたんで。

僕はいつもお客さんの立場で考えるのですが、例えばヴィレッジヴァンガードやキオスクでもCDが売ってたらいいのに、それまでは出来なかったのですよ。でも僕らがやってみたら出来た。

だけど、レコード会社に頼むと「やった事ないのでやりません」と言われてしまう。既存の販売店を守らなきゃなら
ないから、新規参入を認めない風習があるのかな?

新しいものに対して既存の慣習の力が強すぎて、島国根性のようなものが今の日本の足を引っ張ってるところがすごくあって。

流通の手間を省いても音楽はなくならない

大谷:ネットで物は売れるんだから、卸しをかませる必要はないよね。今起きているイノベーションは中間業者が要らなくなる事なんですよ。

CDはパッケージを作って印刷して倉庫借りてトラックで運んで、小売店で駅前の高い家賃を払って販売していますよね。ですけど、今や音楽はスマホに直接データを届ける事が出来ますね。

つまり流通の手間を全部なくしても音楽はなくならない。レコード会社はもう要らない。アーティストが主に作るのだから、最終的には直で売ればいい。売れるインフラはもうITで整ってるわけですよ。

ライブハウスもなくならない

B:「ライブハウスもなくならない」と、大谷さんの本に書いてありましたね。

ライブハウス「秘密」の店内

福岡のライブハウス「秘密」

大谷:そう。ライブは、出演者さんとお客さんが面と向かって、その間には空気しかなくて。これよりもシンプルな事ってないじゃない。

レコード会社が生まれるよりも昔から演奏会があるのが根底なので、ライブはなくならない。だからライブハウスは増やしてもいいという確たる自信がある。

うちはイベントやライブを箱として仕切ったり運営として手掛けてたりもしますが、年間3000件~ 3500件ぐらいのライブをやっています。それの一番根っこの部分をやってくれているのがシミズオクトさんですよね。

コロナ禍もチャンスに

大谷:自分は38歳ぐらいで死ぬと思っていたから今は余生なんです。40歳ぐらいからセミリタイアして、音楽事業部を任せて僕がいなくても会社はある程度は回るようになっていて。

コロナ前は月の半分ぐらいは海外旅行して遊んで暮らしていたけど、コロナ禍になって借金しなきゃならなくなったんで、僕が現場に戻った訳です。

今回もコロナ禍で12億円ぐらい借金したのですが、それを返すために会社の規模を大きくしなきゃいけなくなるんですよ。逆境がなければ前のままでよかったんですよ。逆境や大変な事がないと会社は伸びないんです。

今回のコロナ禍も、皆さん大変だし僕も大変で。でも僕はちょっとラッキーって思ってるところがあるんです。大学生時代までバブルだったんですね。バブルって何で起きたかというと銀行がお金をどんどん貸してたからですね。

今もコロナ禍対策のために国が借金させてくれるし、これはバブルじゃないかと思って。そこから頑張れるかどうかは自分次第なんで。

僕はその空気感はわかっているし、その上でこれをしたらダメというのも勿論あって。借金したものを活かすも殺すもというバランス感があるので。その辺りは僕は上手な気がしてて。

ずっと混沌の中で仕事を創り出してきたので、今のような状況も得意なのです。

コロナ禍でも店を作り続ける理由は?

B:コロナ禍でも攻めの姿勢でライブハウスやカフェを作り続けていますよね。今は何店舗あるのですか?

ライブハウス「1000CLUB」外観

横浜のライブハウス「1000CLUB」

大谷:35店舗ぐらいですかね。決して無茶している訳じゃなくて、ここまではできると思って計算しているんですけど。

コロナ禍前はオリンピック直前などで建築費が上がり人材不足で飲食店の家賃も上がって、特に渋谷は再開発をやっていて家賃がどんどん上がった。つまり時期的に良くなかったので新規出店を3年間ぐらい抑えて、その分の3億円ほどをプールしていたんです。

新規出店は不況の時が一番いいんですよ。人は余るし家賃下がるし工事費も下がるし。それでオリンピックの終わりを待っていたらコロナ禍がやって来たんです。

そしたら不況が先に来ちゃった。物件も空き、居抜き物件も出た。なので結局は元々の予算内に収まっているんですよね。新規に1、2店舗出そうと思ってプールしてたお金で5店舗作れただけなんです。

大谷流・仕事の流儀は「本質を知れ」

大谷:飲食は生き物の本能としてなくならない。わざわざ外食するには何かを求める気持ちがあるのですよ。そういう人々に対して何を提供するかは大事だと思っているので、飲食店はセックスを根底に敷いたムード作りをしないと失敗する。

カフェ「FLAMINGO」の店内

渋谷のカフェ「FLAMINGO」

ライブハウスもなくならないものだから増やしていい。物事の本質を知る事ですよね。生業としてやってもいいかどうか、何を求められてるかをちゃんと考えるという事ですね。

エンタメの仕事は人々の想い出に残る

B:エンタメ業界を目指している方に向けてのメッセージを。

大谷:僕の人生は思い出作りをしていると思っているので。誰かが亡くなった時も「あの人とこんな事あったな」と結局は記憶しか残らないし、思い出に残りたいんです。

歌や音楽は死んでも残るので、すごくいい仕事ですよね。エンタメから少なからず影響を与えられて救われたり元気づけられたという人も多いし。なので僕はとても幸せですよね。だからエンタメの仕事はとてもいいですよ。

2023年の予定は?

B:今年はどんな事をやっていきたいですか?

大谷:今はコロナ禍なので僕が現場に復帰して仕事をしていますが、そうしないで済む時代にまた戻りたいんです。

2023年は早く「コロナなんていうものがあったっけ?」というような時代に戻って、ライブハウスにお客さんが満員で来れるようになって欲しい。

そうなれば、うちはビジネスの仕組み自体は出来ているし、種まきはいっぱいしてあるので。飲食店に関しては客足が戻ってきていますが、ライブハウスはまだ完全に満員ではできないので。

コロナ禍を脱して、安心して休んで遊べるようになりたいですね。

澁谷藝術カフェのカウンター前の大谷氏

神南 澁谷藝術カフェにて


INFORMATION

自伝エッセイ 書籍『CREATION OR DEATH 創造か死か from SHIBUYA

書籍『CREATION OR DEATH 創造か死か from SHIBUYA』書影

大谷秀政・著 LD&K BOOKS・刊

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PROFILE

大谷秀政(おおたに ひでまさ) | 株式会社エル・ディー・アンド・ケイ(LD&K inc.) 代表取締役社長。1968年生まれ。愛知県豊橋市出身。大学卒業後に会社設立し、1995年に現社名に変更。

ガガガSP、かりゆし58、打首獄門同好会、日食なつこなどが所属するレコード会社の社長であり、宇田川カフェ、桜丘カフェ、café BOHEMIAなどの飲食店、チェルシーホテル、スターラウンジ、梅田シャングリラ、桜坂セントラル、横浜1000CLUBなどのライブハウスを全国展開。

デザイン事務所、映像部、CM制作部、MD事業部、ビール事業、エージェント部門、クラウドファンディング「wefan」、動画配信サービス「サブスクLIVE」を運営。レコーディングスタジオ、 ダンススクールなども経営。


Interview&Text:Nori SHINOZAKI(イベントマガジンBANZAI 編集長)


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