吉成ゆいEXPERIENCE

 

ここでは吉成ゆいの歴史を辿りながら彼女がどのような思い出これまで歩んできたのかに迫る。そこからは彼女のひたむきさと音楽にかける情熱があふれていた。

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音楽との出会いは琉球舞踊

小学校入学前、5歳の時より母の勧めで琉球舞踊を始める。この琉球舞踊は子供だけでなく大人も一緒に行うもので、セリフもある演劇じたての演目であった。師範は子供・大人分け隔てなく厳しく教え込むというタイプの人だった。この道場に参加し、琉球の音楽と舞踊に触れたことが吉成ゆいが音楽と関わるスタートとなる。その後、ポップスにも惹かれ、有名な「アクターズスクール」のオーディションを受け、実は見事合格していたという。「でも、授業料の問題などでやめたんです」と、吉成ゆいは回顧する。

 

音楽への決意

その後、那覇市立金城中学校に進学。この中学は当時マーチングバンド部が強く、全国大会で優勝を繰り返す部であったが、そこに3年間所属し、正月の三三が日以外は練習に明け暮れるという日々を過ごす。担当は打楽器であったが、時には旗をもって先頭でパフォーマンスをして歩くということもあったという。高校は豊見城高校に進学。マーチングバンドはなかったが、音楽活動に真剣に打ち込みはじめる。転機は高校中退だ。吉成ゆいは「もう高校でやるべきことは何もなかった。音楽で生きていく。そう思った」と回顧する。高校1年生の終わりに高校を中退。そして、那覇でハウスバンドによる演奏が人気だったLIVE SPOT“APACHE”の門を叩く。

オーナーの川崎利男さんは沖縄出身者ではなく千葉出身。仕事で沖縄を訪れるうちに、そして自らのザ・ベンチャーズ愛が高じて店を構えることになった人物だが、吉成ゆいがこの“APACHE”に志願して来たときのことは鮮明に覚えているという。

吉成ゆいlive

「実はね、彼女年齢をごまかして入店していたんですよ。18歳以上での募集でしたので」川崎さんは苦笑する。「あと印象的だったのは、本当に真剣で一生懸命だったこと。本当は彼女は歌をやりたかったらしいのですが、募集はハウスバンドのドラム。彼女は「できる」と言ってはいったのですが、実はマーチングバンドしか経験がないので、ロールなどはうまいのですが、そこで終わっちゃう(笑)。それじゃダメなんだよと笑うと、「店の鍵を貸してください! 1週間でできるようになってみせます!」っていうの。それで1週間、店が開く前に練習し、見事1週間後にはハウスバンドのドラムとしての実力を身につけちゃった。これはね、根性があると思いましたね」

それに対して吉成ゆいは、「8ビートの意味すらわからなかった、けど不思議とドラムは叩ける自信がありました」と言う。

この店はアットホームで、成人式を迎えたスタッフを皆で祝う習慣があったという。その時吉成ゆいははじめて「実はまだ19歳なんです」と年齢をごまかしていたことを告白したそうだ。「今では若い方にごまかしたいくらいなんですけど~」と彼女は笑う。

吉成ゆいlive2

チャンス到来、そして東京へ

本当の20歳の時には大きなチャンスがあった。ザ・ベンチャーズ初代ギタリストノーキー・エドワーズ沖縄公演のサポートドラマーに抜擢。そこに来た沖縄屈指の企業「オリオンビール」の関係者の目に止まり、沖縄屈指の企業「オリオンビール」の若年層向けのブランドビールのCMに起用されたのだ。体に張り付く黒い革のトップスと黒のスリムパンツに身を包み一心不乱にドラムを叩く若い女性。これが当時の吉成ゆいだ。また、これがきっかけになり彼女のドラムの実力が認められ、当時から沖縄(石垣島)出身のバンドとして人気だったBEGINの『オジー自慢のオリオンビール』のレコーディングにドラマーとして参加。アーティストとしての階段を一歩登ることになる。

そして、”シンガーソングライター”として全国区で活躍したいという思いが募り、7年間所属した那覇の“APACHE”を辞め、ニューヨークでの武者修行を経て、東京に移住することになった。それは今から11年前のことだ。ニューヨークではハーレムに住み、ゴスペルやR&Bの歌唱を勉強したという。

 

吉成ゆい_NY時代_2

 

「NYではできるだけたくさんのライブを見たり、オープンマイクという飛び入りで歌えるところに積極的に足を運びました。人気のオープンマイクで歌うのは本当に怖かったです。だけどこの経験を逃すと後悔する、そう思って勇気を振り絞り、大好きなアリシア・キーズの『If I Ain’t Got You』を歌いました。今振り返ってもあの時、勇気をだして行動して本当に良かったなと思っています。」とゆいは当時を振り返る。

 

吉成庸子さんとの出会い

下積み。成功した者の多くがその頃のことを「あの日々があったから今がある」と語るが、その最中には苦しいプレッシャーや生活苦があったことであろう。吉成ゆいも上京後はまず、那覇での”APACHE”と同様、六本木のハウスバンドによるヒット曲のステージが1日5回、深夜まで及ぶ店にてドラマーとして働くこととなる。

 

それでも願い、努力をし続けたゆいのことは誰かが見ていた。自主CDは累積4500枚売れ、口コミで仕事のチャンスは広がっていく。大きなエポックは吉成庸子さんだ。千葉でも有数の名士である彼女は吉成ゆいをすぐに気に入り、様々なチャンスを与えてくれた。それが今回のメジャーデビューにつながっていることは間違いない。

 

吉成ゆい。様々な出会いと出会った方々の想いを胸に、今、夢の入り口に立つーーー。